2012年3月10日

検証?  洞察?  識別?  (2)

前回からの続き。
改めてマシュー君のその発言を見てみる。(下線強調は管理人)
2005年3月13日
スザンヌ: 今まで、宇宙飛行士の誰かが月に着陸したことがあったのかしら?  それとも、幾つかのレポートが主張しているように、あれらの月面着陸は偽物(フェイク)だったのかしら?
Did any astronauts ever land on the moon or have those landings been faked, as some reports claim?
マシュー: 本物と「偽物」の両方の着陸がありました。着陸した宇宙飛行士たちは高度な文明の証拠を見、そして、見たものを決して口外しないようにと脅されました。そして、あなた方のスペース・ファミリーからあなた方の諸政府に「月を軍事前哨基地とすることはできない」とのメッセージが届いたのです。
There have been both actual and “faked” landings. The astronauts who did land saw evidence of advanced civilizations and were threatened never to reveal what they had seen, and the message from your space family has gotten through to your governments that the moon cannot be a military outpost.
もしこの会話を読んだ人が、「マシュー君はほかならぬアポロ計画、一般に知られているあのアポロ計画における月面着陸のことを指して言っているらしい」という程度のことを思わないとしたら、それはかなりおかしなことである。
何故なら、それが日本語によるものであれ、英語によるものであれ、およそ人間の「会話」というものは、先の発言者の言葉を受けて「応答」するものだからである。
ここにおける「先の発言者」はスザンヌさんである。彼女の言葉をよく観察して欲しい。否、本当は「よく観察」する必要など無い。自然に受け取って欲しい。
11号 - 1969年7月16日
12号 - 1969年11月14日
14号 - 1971年1月31日
15号 - 1971年7月26日
16号 - 1972年4月16日
17号 - 1972年12月7日
彼女は「ever(今まで)」と言い、「those landings(あれらの月面着陸)」と言っている。彼女は、このように言いながら、人々が知っている、スザンヌさんも知っている、「アポロ計画における月面着陸」、4年間の内に成功したと言われている6回の月面着陸のことを言っているのである。彼女の念頭にあったのはそれである。
この事を更に確実に保証するのは、「あれらの月面着陸は偽物だったと主張する幾つかのレポート」という彼女の言葉である。巷に「アポロ計画以外の月面着陸に向けられた疑惑の目」などというものは無いのであるから、スザンヌさんが「アポロ計画の月面着陸」について言っていたのは全く確実である。
次に、そのようなスザンヌさんの言葉を受けてのマシュー君の返答である。
「本物と偽物の両方の着陸がありました」
これは「会話」という「キャッチボール」における「応答」であるから、マシュー君がヨソ見をしている生徒のようでなかった限り、次のような意味で答えたと解釈するのが順当である。
アポロ計画の月面着陸のうち、幾つかが本物で、幾つかが偽物でした」
これ以上の「想像」をするのは、ここでは不自然且つ不必要である。
(想像力は人間の素晴らしい能力である。それにも拘らず、私達は、筋道のない想像、根のない想像、浮遊する想像をするわけにはいかない。)
さて次に、マシュー君のその発言は何なのか、と考えてみなければならない。
私は大真面目に推論してみる。
考えられるのは次の三つであろう。
  1. スザンヌさんの受信ミス
  2. マシュー君の「事実誤認」
  3. マシュー君の「嘘」
受信ミス?
「マシュー君は本当は『アポロの月面着陸の中には本物もあった』などとは言っていないが、スザンヌさんの受信ミスによってそのように言った恰好になった」ということであれば、翻って、マシュー君の他のメッセージ、メッセージ全体の信頼性はどのように担保されるのか。
それに第一、マシュー君のあれらのメッセージを見よ。それはなんと細かく複雑な情報だろう。もしそのような複雑な情報を正しく受信できて、しかしアポロの月面着陸に関するそのような単純な情報を間違って受信するというなら、全くおかしな話ではないか。
また、こうである。もし受信ミスだったならば、マシュー君はその時、あるいは後からでも、「お母さん、あなたは私の思念をちょっと受信ミスしました」と伝えることも幾らでもできたではないか。もし「アポロの月面着陸の中には本物もあった」と言っていないならば、何故、そのように修正を求めることをしないのか。
であるから、「受信ミス」ではないのである。
(もちろんこれは「推論」である。しかし確度の高い推論、良い意味で「常識的」な推論である。)
事実誤認?
私は、人はマシュー君のその発言をマシュー君の悪意のない「事実誤認」に帰してはらないと思う。
何故なら、マシュー君は初めから、肉体や物質の障壁に邪魔されず、それ故物事の認識において私達より遙かに広い視野と高い自由性を有した「霊」としての地位を享受しているからである。彼はいわば最初からその「高み」から私達に教えている。
変な話、そこには「責任」が伴う。だから、私達はそんなものにあっさりと「人類の月到達」という大事件に関する「事実誤認」を許してはならないのである。
(本当は「変な話」などではない。これが私達の社会における出来事だった時のことを考えてみて欲しい。あなたは何故、相手が「霊」だからといって、そんなに甘くなるのか。)
また、こうである。
マシュー君自身の言に従えば、スピリチュアルな世界には、宇宙の事跡の全てが記録されているという「アカシック・レコード」と呼ばれる一種の記録貯蔵庫と、マシュー君にとっての霊の先輩達である「アセンデッド・マスターズ」という存在があるらしい。
質問はこうである。
マシュー君はその二つに助けられながらも、なお、「人類の月到達」という、人類にとってはもちろん、おそらく天界の人々にとっても、また神ご自身にとっても(何故なら人類は神の子供のようなものだから)記念すべき、画期的な、文字通り「世紀の大事件」であるものについて、見事な「事実誤認」をやってのけたわけか?
考えられぬことである。
結 論
以上によって、人は、ここにおいて「受信ミス」と「事実誤認」の二つの線はほぼ消えた、と考えなければならない。
では、残るものは何か?
私は、ここは「消去法」に力を持たせていいと思う。
すなわち、マシュー君は嘘を、「自覚的」であり「故意」であるところのいわゆる「嘘」を言ったのである。
以上は「推論」と云えども、それなりに「筋」の通った推論であることにご留意頂きたい。この場合、以上のような推論(想像力の論理的運用)によって、「マシュー君は嘘を言っている」という以外の結論は難しいのである。
狐は尾の先を出したのである。
* * *
「知る」とは何か。
前のページでこう書いた。
「私はこれも後から理解したのだが、彼は『オルターナティブ・テクノロジー』『反重力』『地下トンネル』などに触れることによってマシュー君のメッセージのある程度信ずべきことを間接的に言っていたのだろう。マシュー君はそのような事柄について何か言っているのだろう。」
これを読んで、「この人はマシュー君のことをよく知りもしないくせに批判している」と思った人も居ることだろう。
しかし、「知る」とは何か。
およそ「洞察力」ということを口にする者(例えば飄平さん)なら、「知る」とは単に「知識の量」のことを言うのではないと知っているだろう。
しかしながら、そのように知るあなたも、更に「洞察」と言い、また「識別」とさえ口にするあなたも、もし「疑う」ということの意義/価値/必要性を十分に知らないならば、知らず知らず次のような心のプロセスを辿るかも知れない。
あなたはマシュー君のメッセージを、一回、二回、三回と読む。その度にあなたは、あなた自身で「小さな疑問」を感じたり、あるいは他者から「疑問」を超えた「疑惑」の提示を受けたりする。(図中のマークの黒丸)
けれどもあなたは、それらを総じて「小さな事」と受け取る。マシュー君のメッセージの「大部分」は、あなたの目には間違いもなく「明るく」「希望的」で、「愛」も「善意」も「知性」もあり、且つ、曰く「現在の人類の大方からは隠された」、それ故ある種の魅力を持った、好奇心をそそる刺激的な「重要な情報」も含んでいるように見える。
しかし、あなたは「疑う」ことの意義/価値/必要性を十分には知らないがために、小さな「疑問」や「疑惑」の部分を「取りあえず」とか「今は」とか言いながら、あるいは「時の経過と共に真相はおのずから顕われるさ」とかノンビリした展望を描きながら、毎回「見過ごして」ゆく。「先送り」してゆく。
あなたは「大部分の明るい部分」に、あなたに希望を感じさせたり未知の魅惑的な情報をくれたりする部分に、惹かれる。そして、そのような部分に対する好印象があなたの心の中に堆積してゆく。(本来、「好印象」は物事の「確かさ」を保証するものではない。しかし、あなたは錯覚する。)
あなたは読む。しかしそれはいつも図中の点線で囲んだ範囲である。
それは読まれるたび累積する。そして、あなたの目にとっての存在感を更に増す。
それはあなたのポジティブな視線を受けるたび、あなたの目にポジティブな輝きを返す。
しかし、そこ(点線で囲んだ範囲)には検討されるべき「小さく暗い部分」たちは含まれずじまいである。「残りの一割」たち、「残りの1%」たちは、毎回「優しく」扱われ、通過させてもらえる。それらはいつまでも顧みられず、あなたの目にとっての存在感を減じ続ける。
あなたはそのような「読み方」をしている。
それでもあなたは言う。
「私は詐欺にはかからない、かかっていない」
* * *
最後に、私の卓越せる第六感(笑)から。
  1. 本物と「偽物」の両方の着陸がありました。
  2. 着陸した宇宙飛行士たちは高度な文明の証拠を見、そして、見たものを決して口外しないようにと脅されました。そして、あなた方のスペース・ファミリーからあなた方の諸政府に「月を軍事前哨基地とすることはできない」とのメッセージが届いたのです。
1 と 2 を、「マシュー君」は続けて言ったのである。
1 と 2 は「一つの文脈」の中にある。
だから、1 が「信ずるに値しない」と判断される時、
人は何故、2 を「信ずべきもの」と判断できるだろうか。
(疑った方が遥かにいいだろう。)
1 はマシュー君の「嘘」である。
これは私の第六感に依らず、上で展開したように、
ある程度論理的に推論されることである。
そして次に、私の卓越せる第六感(笑)である。
1 の嘘は、2 の世界観(宇宙観)に「つなげる」ための嘘である。
2 も嘘である。
人は今後、マシュー君その他が展開する「宇宙的なストーリー」には警戒しなければならない。
* * *
何度でも言うが、私は「何としてもマシュー君を悪者にしたい。そう決め付けたい」からというので、そう結論するのではない。推論によって、想像力の論理的運用によって、そのように結論するしかない、そのような結論に「導かれる」というだけである。(私は、少なくとも今回の「推論」では、クリスチャンとしての視点や論法を使っていない。ただ人として理性を使っただけである。このことにご留意頂きたい。)
また、私はアポロの月面着陸のことだけで言っているのでもない。
良ければ、他の諸視点もご参照下さい。
こういう示し方は自画自賛的になるが、
2010年11月15日の「『マシュー君』は悪霊である」から、
2010年12月14日の「スウェデンボルグは信ずべきものではない」あたりまで。
「真理探究」においては各宗各派の「教義」は問題ではない。「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。或る宗教の「教義」が価値あるものとすれば、それは、それが「事実」に合致している時である。「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。(カトリック仲間には怒られる言い方であるが。)
宗教における第一次的なもの
あなたは、シルバーバーチについてよく検討すれば、同時に、必然的に、マシュー君についてもよく検討したことになります。
シルバーバーチは悪霊である 1」〜
真理の在処は、しばしば悪の陣営(悪霊+悪人)の言動によって照射される。
あなたはこれまで一度でも、サタニストが「プロテスタントのパンを黒ミサのためにとっておけ」と言っているのを聞いたことがあるか?
建物とその中の煙 1

検証?  洞察?  識別?  (1)

私の駄目な霊魂も、彼の霊魂も、多くの人の霊魂が、救われますように。
けれど、やはりここでは、私はいつもの「冷酷」な「指摘口調」を採ろう。
「直言」させて頂こう。
「個人攻撃」のように見られるかも知れない。
しかし、彼も「表現者」である。
ある程度「責任」ある「発信者」「流布者」である。
* * *
2月27日、「マシュー君」 は悪霊である 3 をアップした。
同日、それをアップしたことを飄平さんにお伝えした。
飄平さんはその私のコメントを表示して下さった。参照
3月6日、飄平さんは新しいマシュー君に関する記事をアップなさった。参照
私は、前回のコメントで「あとは、飄平さんの人生は飄平さんの人生だから、飄平さんにお任せします」と書いたことをつい失念*し、再び次のように投稿した。
(*激昂して「われを忘れた」わけではない。ただ、やはり明確にさせて頂きたかった。)
私は先日お知らせした私のブログの記事に次のように追記しました。
「私は、ほかの誰でもない飄平さんにお知らせしたのである。アポロの月面着陸を信じている人には知らせない。飄平さんは、完全にかどうかは知らぬが、ほぼ、アポロの月面着陸は捏造であると考えている人である。だから、お知らせしたのである。飄平さんは、今のままでは、一方ではアポロの月面着陸を否定し、他方ではアポロの月面着陸を肯定するマシュー君を肯定する、ということになる。飄平さんは物事の『整合性』というものをお気になさらなければならない。」
 http://to-chihiro.blogspot.com/2012/02/3.html
飄平さん、出来得れば(強制できるものではありません)、これに対する飄平さんの現時点における態度表明をお願いします。
投稿 JG | 2012-03-06 20:35
形としては、私は飄平さんに「迫り」「詰問」した。
しかしそれは、傲慢気味に言えば、そして正直に言えば、飄平さんがご自分の目を見直されることを望んだからである。すなわち、私は他者の外的行動を自分の圧力で左右したいとは思わない。今後飄平さんがマシュー君のメッセージを流布し続けるも続けないも飄平さんの自由である。私が関心があるのはあくまで「内面」である。(外的行動はその「結果」に過ぎない。)
上の私のコメントから、飄平さんとの若干の新たなやり取りがあった。
以下、私は飄平さんのコメントを丸ごと転載することは差し控えるが、そのやり取りは同じ記事のコメント欄参照に読むことができる。
私が飄平さんに提示したのは、こうである。
  1. 飄平さんは、完全にかどうかは知らぬが、ほぼ、アポロの月面着陸は捏造であると考えている人である。
  2. 飄平さんは、今のままでは、一方ではアポロの月面着陸を否定し、他方ではアポロの月面着陸を肯定するマシュー君を肯定する、ということになる。ここのところの「整合性」はどうなるのか。
1 に関して、飄平さんは初め「(自分は)アポロ11号の月面着陸はなかった、と限定して断定している」とお答えになった。後で分かったことには、飄平さんは「アポロ11号の月面着陸」という言葉でアポロ11号のみでなく「アポロ計画における月面着陸の全部」を意味していたのだが。
ならば、私の飄平さんに関する想像(1)はそう間違っていなかったわけで、飄平さんは特に「〜〜と限定して」という言い回しで返答なさる必要は無かったように思われる。「おっしゃる通り、私はアポロの月面着陸を否定しています」と言えば済んだように思われる。
しかし、私は後から徐々に理解したのだが、彼には彼として「〜〜と限定して」という言い方をしたくなる理由があるようであった。彼はアポロの問題とは別に「宇宙旅行の可能性」一般について話した。そして、おそらく彼は「アポロ計画以外の成功したが秘匿された月面着陸」というものがあった可能性をも、心のどこかに置いているようであった。だから、それ故「〜〜と限定して」と言いたくなるようであった。
しかし、それにしても、それは「会話の線」から外れたことだった。私はそんなことは訊いていなかった。
私とて、相手に自分の期待したような答えを強要するほど暴君ではない。しかし、それにしてもそれは「会話」である。言葉と意思のキャッチボールである筈のものである。私は、飄平さんがあまりに私の問いの線から外れたような返答の仕方をなさるので、非常に奇妙な思いがした。(やがて二回目の返答を頂く時にも同じ思いを味わうことになる。)
そんなわけで、私は次のように返した。
飄平さん、お返事ありがとうございます。しかし、私の狭いフォーカスにとっては、飄平さんのご回答のなさり方は少々広過ぎるように感じました。私の関心はマシュー君とスザンヌさんの「その会話」の上にのみあります。
その会話において彼らは、「条件が変わった時に可能になるであろう宇宙旅行」のことを話しているのでも、「隠されているかも知れない他の月面着陸」のことを話しているのでも、「宇宙人」や「宇宙船」について話しているのでも、「近未来に完成するはずの技術」について話しているのでもありません。
スザンヌさんが「あれらの月面着陸(those landings)」と言った時、それは当然、人々が知っている、スザンヌさんも知っている、「アポロ計画における6回の月面着陸」のことを指していました。従って、それを受けてマシュー君が「本物と偽物の両方の着陸がありました」と答えた時、それは「アポロ計画における6回の月面着陸のうち、幾つかは本物で、幾つかは偽物でした」という意味です。
そして次に、アポロ計画における6回の成功した月面着陸と言われているものとは、1969年の2回、1971年の2回、1972年の2回です。マシュー君は、このごく短い期間内のことについて言ったのです。
以上が、彼ら二人のその会話に対する自然な解釈、自然な言語解釈です。もし誰かが「マシュー君はその回答の中に『隠されている成功した月面着陸』のことまで暗に含めていたのかも知れない」と解釈/想像するならば、その人は不自然且つ不必要なことをしていると言われるべきです。(この会話の問題を離れてそのようなことを想像するのは構わないとしても。)
さて、これを飄平さんに対する最後の質問とさせて頂きます。
飄平さんは「1969年のアポロ11号の月面着陸はなかった」と限定的に断定するそうですが、では、飄平さんはマシュー君と同じように、それから僅か4年後の最後の17号までに幾つかの本当の月面着陸の成功があった、とお考えですか? マシュー君はそういうことを言っているわけですが。(もう一度言いますが、マシュー君はアポロ11号、12号、14号、15号、16号、17号のことを言っているのです。)
この質問に飄平さんが「ええ、その可能性も全面否定はできません」とお答えになるならば、私にはこれ以上申し上げる事はありません。
煩わせて申し訳ありません。ご回答は短くて結構です。
(この私のコメントは同じページのココに読むことができる)
この私の問いに対する飄平さんの返答によって、私はやっと飄平さんが「アポロ11号」という言葉で「アポロの月面着陸の全部」を意味していたことに気づいたのである。彼は言った、「アポロ11号~17号は、言わばショーだと考えています。(…)アポロ11号~17号は、単なるショーだと考えています」。
しかし、またもやである、またもや彼はその後に、「オルターナティブ・テクノロジー」「反重力」「地下トンネル」などについての持論を語った。
私が提示した「マシュー君はその会話の中で『アポロ計画における6回の月面着陸のうち、幾つかは本物で、幾つかは偽物だった』と言ったのだ」ということに関しては少しも触れない。反論もしない。マシュー君擁護を試みもしない。
が、私はこれも後から理解したのだが、彼は「オルターナティブ・テクノロジー」「反重力」「地下トンネル」などに触れることによってマシュー君のメッセージのある程度信ずべきことを間接的に言っていたのだろう。マシュー君はそのような事柄について何か言っているのだろう。結局彼はマシュー君を間接的に擁護していたのかも知れない。
しかし、とにかく、私にとって飄平さんの反応の仕方は、二度が二度とも、率直に言わせて頂けば、どうにも「面妖」なものであった。
自慢じゃないが、いや、この際自慢でもいいが、私なら、真っ直ぐ訊かれたことには真っ直ぐに答える。私は、飄平さんにもそうしてもらいたかった。
例えば飄平さんは、次のように答えることもできた。
「マシュー君は、会話の自然な流れからは多少逸れて、アポロの月面着陸以外の隠された月面着陸のことをも含めて言っていたのかも知れません」、あるいは「スザンヌさんもいつも必ずマシュー君からの通信を正確に受信できるとは限らないのかも知れません」、あるいは単に「私にはよく分からないことです」。
しかし、彼はそのような答え方は何もしなかった。
私の最初の質問は「整合性」という言葉に捧げられていた。しかし飄平さんはそのような言葉などまるで見なかったかように振る舞った。
もし飄平さんが、その日のマシュー君のメッセージを紹介する記事既出の前段において自ら語っておられるように、真に「判断停止」を嫌うならば、そして「洞察」や「識別」への努力をあくまで尊ぶならば、私が今回飄平さんにお見せしたマシュー君の発言についても何らかの「推定の努力」ぐらいはすべきであった。しかし彼は、少なくとも現在、少なくとも表面上、その欠片も見せないのである。
飄平さんはおそらく「おおらか」な人で、おそらくマシュー君のその発言を「小さな事」と思っておられるのだろう。「マシュー君は多くの、非常に多くの『本当の事』あるいは『むげに否定できない事』を言っている。だから、そんな『小さな事』は顧慮するに値しない」というわけであろう。
彼にとっては、「小さな事」に目を注いだ検証は「覚束ない(確度の低い)検証」ということになるのだろう。
しかし、「検証」における真実は逆、真逆である。説明する。
もし飄平さんが現に、上で私が想像した通りに思っておられるとしたなら、私は率直に「飄平さんは『検証の人』ではあり得ない」と申し上げる。
何故か?  何故ならば、「検証」ということには当然「詐欺犯に対する検証」ということも含まれるからである。
「検証」においてはそれが非常に重要な要素である。欺き、騙しに対する意識の無い「検証」など、あり得ない
そして、「詐欺犯」とは何か?
九割方「本当の事/本当らしい事」を言い、残り一割において「嘘」を言うもののことである。(99%と1%でも構わない。)
だから、「自分は物事を『検証』する」と豪語するほどの者は、
九割の「本当の事」あるいは「むげに否定できない事」よりはむしろ、
一割の「明らかな嘘」あるいは「疑わしい箇所」の方に、
より一層己が目を注がなければならないのである。(理の当然である。)
そういうものを見つけた時には、集中的にその上に目を注がなければならない。
だから、「確かに少々疑問だが、しかしごく小さな事だ」と言ってその事項を看過する者は「検証者」の名に値しない。
名刑事にもなれない。名刑事は、それから名鑑識も、糸のごとく「小さなもの・細いもの」を忘れずに拾うからである。
名審神にもなれない。名審神は、たとえお告げする霊がタキシードを着ていようが十二単を着ていようが(= 一見立派な事を言おうが)、後ろの裾から何か「尻尾の先」のようなものが覗いていないかどうかをチェックすることを忘れないからである。
注)九割/一割という比率はあくまで喩えである。マシュー君のメッセージは実際その九割が真実で、嘘は一割だけだ、などといった意味では決してない。
* * *
私は、自分の傾向に警戒しなければならないけれども、しかし、飄平さんのことを貶めることが本意なのではない。ただ、はっきりとは言わせてもらった。
また、カトリック教徒として言っているのでもない。
何故なら、私はそのカトリックの世界の中でも同じ事をしているからだ。
カトリック界の中にも悪霊は居り、嘘もあり、それらに騙されている人達が居るからである。教会の内にあろうが外にあろうが、真実は真実であるし、嘘は嘘である。私はそういう観点から言っている。
だから、物事はそう簡単ではない。「この人は、自分がクリスチャンで、マシュー君の言うことが自分の信仰とは合わないものだから、マシュー君を攻撃しているのだ」などと、あまり簡単に考えないで欲しい。
飄平さんは、ご自分の記事に対して投げかけられたどのような批判的なコメントも、基本、すべて受け入れ、表示されるようである。私はそこに彼の「おおらかさ」を見、評価せずにはおれないし、私のコメントもそのように受け入れられたことに一つの感謝を感じないではおれない。
私は今回、そのような飄平さんの純な(おそらくそうなのだろう)ご性質に、冷たい刃を向けたような気がする。
しかし、とにかく、飄平さん、あなたは純ではあるかも知れないが、必ずしも「まっすぐ」ではない。私の質問にすら「まっすぐ」に答えようとしない。それはすなわち「物事をまっすぐに見ない」ということである。少なくともその徴候である。しかし、物事を「まっすぐ」に見ようとしない者が、どうして物事を「検証」できようか。これは「知識」以前の話である。検証が「覚束ない」のはあなた自身ではあるまいか。
ページを改める。次へ