2010年12月31日

建物とその中の煙 1

さて、次は、主としてプロテスタントの人達に向けて書くのである。

もっとも、私も経験上、人の心は「言葉」などではなかなか動くものではない、ということを知っている。人の心は、動く時には動くし、動かない時には動かない。全ては、その人の人生航路と、そしておそらく、神の恵みによるのである。だから、あまり力こぶ作って語ることは、しない。(かも)

一回目は、既に書いたのである-------「カトリック」。カトリックの真実について気づく人は、その記事の簡単な表示によってすら気づくだろう。


今回はこう叫んでみよう。

あなたはこれまで一度でも、サタニストが
プロテスタントのパンを黒ミサのためにとっておけ
と言っているのを聞いたことがあるか???

誤解しないで欲しい。私はこれを「カトリック教徒」としての立場から言ってるのではない。上の質問は、かつて「探究者」であったところの私を打った質問である。私は自分で言うが、この質問にドンと打たれることこそ正常なのであって、打たれることがないなどというのは、どこかおかしいのである。それほど、事の真実は、これによって単純明快に、明々白々に暗示されているのである。
(「明々白々に暗示」などという言い方は矛盾した言い方なわけだが、まあ、そういうことだろう。それほどのものが、ここにあるのである。)

上の質問は「疑惑」である。いわばポジティブな形態での「疑惑」である。世間の一部では今、ネガティブな形態での「疑惑の追及」が盛んである。しかし、見受けられるところ、ネガティブな方面では大いに頼もしいそのような疑惑追及の獅子達も、ポジティブな方面に関してはさっぱりのようである。このような場所に潜むこれほど大きなシグナルを容易に見逃すようである。彼らは自らを「追及者」と認めるだろうが、しかし実のところ物事間の「整合性」というものをさほど「追及」しないようである。

カトリック教会のミサにおける「聖体奉挙」


宗教における第一次的なもの」達、すなわち「示現」達は、
「聖体」について次のように叫んでいる。

その前に、私としての前置き

私はなにも、「不思議話」が大好きで、ここにこのようなものを並べようというのではない。皆さんが ------- シルバーバーチやマシュー君を含めた皆さんがw ------- あまりにも「聖書や教会組織の中には神由来ではないもの、人由来、人造、人為によるものが、それは沢山あるだろう」と深く、そして広く信じておられるようだからである。

結構である。私もまた「教会の中には人造・人為のものはない」などと言うつもりはない。それどころか、私は「第二バチカン公会議」を・・・いや、言うまい。けれども、さっき「広く信じておられる」と言ったが、要するに「範囲の測定」ということがことのほか大事である、ということなのである。つまり、カトリック教会ならカトリック教会の、どの部分が、どこからどこまでの範囲が、神由来のものであり、あるいは人由来のものであるか、ということを見極めることが、非常に大事なのである。そして、そのための一助として、以下の示現を掲げるということなのである。そういう意味合いである。

そしてまた、あなたが「神」というものはおられ、またそれは「法則」ではなく「人格」であると信ずるなら、あなたにはおそらく、このような示現を即座に斥ける理由はないだろうからである。あなたは「聖書を調べたい」と言うのか。しかし聖書というものは、大幅に、アブラハムやモーゼその他の預言者たちが神から受けたと称する「通信」から成っているのである。あなたはそれをどのように「調べたい」というのか。私は言う、宗教とは畢竟「神から人への通信」から成っていると。あなたにとってはそれが主要な関心でなくてはならない。それが視界に入っていなければならない。それを度外視するか脇にどけるかしたような「検証」は片手落ちである。そのような姿勢では、あなたはどんな宗教的な真理も発見することはないだろう。------- しかし、世の中には「聖書を調べる」ということにおいて、あるいは「キリスト教を調べる」ということにおいて、どれほど「地上的な目」がのさばっていることだろうか!

神の神秘的な都市
御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。参照
ドレクセル教授への示現
司祭達ばかりでなく司教達も(…)時代の精神の影響下に入るであろう。(…)天国と恩寵の神秘である超自然を否定することによって、彼らは自然を偶像化する。参照
ベイサイドの預言
現在、私の御子の家にさえ、人類に悪魔の教義をもたらしている多くの神学者達がいます参照
多くの者が、わが体(訳注:御聖体のこと)を、不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与えている参照
エクソシズムでの悪魔の自白
しかし今では正にその反対で、現代風のミサでは我々はそこら中で踊り回り、果ては...参照

これらを読んで、
「ああ、カトリックの『聖体』というものは、確かに何か非常に特別なものに違いない」
と思わないとしたら、
あるいは少なくとも
「特別なものかも知れない
ぐらいのことを思わないとしたら、

私は「カトリック教徒」としてでなく「探究者」として言うが、
あなたは目の見えない人である。

しかし、上の引用を読んだあながが直ぐに気づくように(あなたがこれらを信ずれば)、カトリック教会の真実(奥の真実)を伝えようとすると、それを十全に伝えようとすると、必ず同時に、何かしら現在のカトリック教会の難局の部分をも晒さねばならないというのも事実である。

要するに、聖職者達は「超自然」とか「聖性」とかが分からなくなった。そして、「分からない」のであるから必然的に、それを尊ばない。彼らはたとえ人間的には良くても、神様事に関する霊的な視覚を失った。ということだ。

最近の例。2010年11月23日(火)、カトリックさいたま教区司教座聖堂である浦和教会では、司教の臨席のもと、というか司教の指導の下で、主聖堂にて演芸会(落語)を行なった。最も酷い例ではあるが。
霊的盲目は聖職者だけに留まらない(参照

これは、確かに、カトリック教会の「恥」の部分である。「ていたらく」の部分である。情け無い部分である。

では、何故このようなことになったのか? その「原因」は?
それは、大雑把なことを言うようで申し訳ないが、一言で言えば、パウロ六世教皇様もお認めになったように、
「教会のどこかの裂け目から『サタンの煙』が入った」(1972年)
からである。(「サタンの煙」と言っても、もちろん超自然的な事ばかりを言うのではない。その痕跡は、第二バチカン公会議の中に、精神的にも、言葉によっても、見出し得るのである。)

それが真実である。事実である。しかし真実や事実の「全て」ではない。
すなわち、半面においては、上の事はかえって何かの「証左」なのである。
神が最も濃く在す所に、悪魔は最も激しく攻撃を加える
という事だからである。その「証左」である。

誇っているのではない。「事実」をお知らせしているのである。


地球上のあらゆる宗教組織を見渡す時、カトリック教会ほど
悪から激しく集中的に攻撃を受けているものはない。

イルミナティの極秘指令書を見よ。それはカトリック教会に対するものである。もちろん、イルミナティにとってプロテスタントも敵ではあるだろう。しかし、そこにはこうあるのである。
  1. プロテスタントの牧師を結集し、ミサの改訂と非聖化を行え。キリストの現存を疑わせるよう人々を動かし、聖体拝領は単なる食事と象徴でしかないという、プロテスタントの信条にいっそう近づけよ。
  1. 神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。
  1. プロテスタントの聖書と同じになるまで、聖書を改訳し続けよ。
  1. 舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。キリストもそのようにしたのだと言え。聖体の一部を黒ミサ(サタンミサ)のためにとっておけ。

私はプロテスタントの皆さんに言う。

これらはある種の「シグナル」である。
かなり明確な「シグナル」である。
どうしてこれを「見落とす」などということができるのか!?

私はあくまで「探究者」あるいは「観察者」の地点から申し上げるのである。
プロテスタントの人達はどのようにして、
このような明確なシグナルを押入れにしまっておくことができるのか? と。



そこには「現存」という言葉がある。
「聖体におけるキリストの現存を疑わせろ」と。
キリストの御体、御聖体におけるキリストの実体的現存のことだ。

だから、私達は当然、次のような「眺望」を得るわけである。

一方ではイルミナティが、
聖体におけるキリストの現存を疑わせよ。それを手で受けさせよ。
と言い、
他方ではベイサイドが、
多くの者がわが体を不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与え、また受けている。
と叫んでいる、そのような眺望をである。
(ベイサイドが気に入らなければ他のものでも良い。幾らでもある。)

人はどのようにしたら、この対応、この一致、この眺望、この全体的な構図、この決定的な構図を -------「見落とす」などということができるのか???
(もっとも、カトリック信者自身が、その大部分が、見落としているのだが!)

イルミナティは「聖体の一部を黒ミサのためにとっておけ」と言っている。
あなたはかつて一度でも、サタニストが「プロテスタントのパンを黒ミサのためにとっておけ」と言っているのを聞いたことがあるか?
ないならば、「それは何故なんだろう」と考えるのが、至当!

  1. 修道服を捨てさせよ。それと一緒に、ロザリオも投げ捨てることだろう。
何故、彼らはロザリオをそんなに憎むのか?
それは女子供が好む単なる「お祈り」の一形式ではないのか?

小さく可愛らしい回心の物語がここにある。
5歳児が彼女の宝物としているロザリオを通じてヒンズー教徒の家族を回心させる


私は何度も強調せずにはいられないが、
私はあくまで「探究者」としての位置から申し上げるのである。
私はかつてニューエイジ思想にも神道系の教団にもプロテスタント教会にも・・・もういいだろう、今まで何度か言ったことである。
とにかく、私の人間としての性質は、今でも「探究者」である。
そんなに優れたものではないとしても。

その立場から言う。
プロテスタントの人達は、このような事をよくお調べになり、
事の真実をよくよく「見分け」られた方が良い。

こんなことを言うのは、この時代、平信徒だけである。
カトリックの司祭が言うと思うか?
参照 「改宗は教会法によって禁じられている


私は、しつこいけど「探究者」の位置から、あなたに申し上げる。
「御聖体」は想像を絶する賜物である。天主様からの、イエズス様からの。
イエズス様は、基本的に(教会的な正しい順序と人間の正しい姿勢のもとに)、それを人間にお与えになりたくて仕方がない。
けれども、あなたがカトリックに関心を持ち、カトリック教会を訪ねると、
司祭は言うかも知れないのである -------
「プロテスタントのままでもいいんじゃありませんか?」

これが今の時代である。
サタンの罠にかかっているからである。

わが子達よ、子供達の両親達よ、これを覚えておきなさい。もしあなた方が自分の子供達を清浄さと神聖さの中で教育することを怠るなら、あなた方がやがて手にするのは悲しみだけである。
  1. この神聖さを現在のわが教会の中に見出せると期待してはならない。
  1. しかしまた同時に、そこから走り去ってもならない。そこに留まり、戦いなさい! わが教会を保ちなさい!
数は僅かとなるであろう。しかし、わが子らよ、質の高い僅かなものがある方が、量の他には何もないよりは良いのである。
- 1977年5月14日、ベイサイドのイエズス(参照

私は 断言 して言うが、これが事の真実、事の全体的な真実である。


カトリック教会に対して、いろんな疑惑もあろう。時には「黒く」見えもしよう。しかし、次のような事も考えてみなければならない。
もしそれが神が地上に据えた「建物」であるならば、その中に混入したサタンの煙によってたとえその内部が幾らか部分的に黒く見えようとも、なおその建物は「神の据えた建物」なのではないか?
このことは、神が人間や教会に付与したところの「権能」ということと関係している。

それはたとえば、カトリック教会内においても、次のようなことが言われる。
(これも或る「示現」からのものである。主イエズスからの御伝言とされる。しかし、このような内容はカトリック神学の中にもあるのだろうと思う。)

司祭に対する非難について
われらの主からムッター・フォーゲルへの啓示

「例え司祭が誤りに陥っているとしても、人は決して司祭を非難すべきではない (should never attack)。むしろ私が再び彼に私の聖寵を与えるように祈りと償いをすべきである。例え彼が私の模範に従って生きていない時でも彼のみが私を完全に代表する!」(1929年6月29日)

「司祭が誤った時は攻撃 (attacks) によってではなく祈りによって彼に救いの手をさし伸べるべきである! 私自身が彼の審判者 (judge) となろう。私以外の他の誰も審判者になってはならない!」

「誰でも、司祭への非難 (judgement) を述べる者はそれを私に向かって述べたことになるのである。子よ、決して司祭が攻撃される (be attacked) ことを許すな。彼を擁護せよ。」(1937年王たるキリストの祝日)

「子よ、決してあなたの聴罪司祭を裁くな (never judge)、むしろ彼のために多く祈り、また毎木曜日、私の祝された母の手を通して(彼のために)聖体拝領を捧げよ。」(1939年6月18日)

「決して再び司祭について常軌を逸した言葉を受け容れるな、また例えそれが真実であっても彼等について不親切な (undkind) 言葉を話すな! 司祭達は皆私の代理者であり、私の心はそれによって不快になり、侮辱を受けるであろう! もしあなたが司祭に対する非難 (judgement) を聞くならばめでたしを1回祈りなさい。」(1939年6月28日)

「もし司祭がふさわしくない状態で聖なるミサを捧げているのを見たら、彼について何も言わず、ただ私にだけそれを告げよ! 私は祭壇上で彼のかたわらに立っている!(…)ああ私の司祭等が何にも増して清らかさを愛し、ミサの聖なる犠牲を清らかな手と心で執り行うよう、彼等のために多く祈れ。例えふさわしくない司祭によって執り行われた時でも、確かにこの聖なる犠牲は一つにして同一のものである、しかし人々の上に呼び下される聖寵は同じではない!」(1938年2月28日)


教会のことであれ、司祭のことであれ、神ご自身が「権能」を付与したものであるならば、私達はそうそう簡単にはそれを「否定」できない、ということなのである。それが私達の目に多少「黒く」見えようとも、「駄目」に見えようとも。

かつて私がカトリック信者向けに作った絵
(プロテスタントの人達のためにも転用できると思う)


【参考】
キリストの教会は「一の檻一の牧者」であらねばならぬ
「聖書のみ」の主義では失敗する
『教皇“その人”』と『教皇の役職』の違い
建物とその中の煙 2


カトリック教会は天主様が地上に設置し給うた「柵」である。
もちろん、その柵の中も乱れるわけだけれども、それでもキリスト者はあくまでその中に居なければならない。
聖職者達に問題があるなら、それを声を挙げて指摘するのは良い。現に私達もカトリック教会内でやっていることである。(すなわち私は上の「彼について何も言わず」には同意し切れない部分があるのだが。) けれども、それによって神の地上に設置し給うた人類に霊益を与える装置、恵みの通路(教導権や秘跡)などをまったく投げ捨てて柵の外に出るのは、一つ決定的な過ちである。あなた自身の霊魂にとって大いなる損失であり、天の悲しむところである。