2010年12月13日

突然来るそれ

あ〜る日とつぜん お告げがあーるのー
あ〜んなに神を 無視したけーれどー

いや、そんなことはないね、という話。

霊界からの通信というものを見ていくと、接触して来た「霊」と接触された「人間」との間に、一つのパターンのようなものがあるような気がする。

どういうことかと言うと、
  1. 本当の神様から示現を受けるのは、大抵、それまでの人生の中で相当に信心深かった人であり、
  2. それに反して、悪霊からの通信を受けるのは、大抵、それまでの人生の中で無神論者であるか、宗教信者であってもあまり熱心でなかった人である、
ということだ。


例外はあるだろうか。

前者における例外。
つまり、教会に通うことに熱心な人でも、ある日、偽の「イエズス」(あるいは「聖母」「天使」etc.)の出現を受け、悪霊に騙される。そういうことはあるだろうか。------- 勿論、あり得る。否、ある。

では、後者においては例外はあるだろうか。
つまり、無神論者だったり、宗教信者であってもあまり熱心でなかった人のところに、本当に「本物の神様」が通信しようとして来ることはあるだろうか。

私は、まず無いと思う。
考えてみてよ。ふだんちっとも「イエス」に思いを向けない人のところに「イエス」が来るかい? ふだんちっとも「神様」と思わない人のところに「神様」が来るかい? 神様は「心の寛い」お方だから、何らかの意図のもとに、そのようなことをすることもあるかもって? いいや、私は、まず無いと思うね。

ふだん神様に心を向けることがまったく無いか、有ってもごくたまに、気紛れにであったりする人のところに、ある日ポッと、突然「イエスである」「天使である」と霊が言って来る。そのような場合は、まず悪霊からのものと思って間違いない。


例1) ヴァッスーラ・ライデン (Vassula Ryden)


この人がどんな状態の時に(どのような生き方をしている時に)最初の霊的通信を受けたかを、二つの記事が語っている。

まずは、彼女に好意的なサイトの記事から。
(ヴァッスーラ・ライデンは)10代から30年間も教会にほとんど行かず、宗教的無関心な生活を送っていましたが、1985年11月のある日、突然守護の天使ダニエルの訪問を受け、その後、知的幻視のうちにキリストからのメッセージを受けるようになりました。

次は、「ヴァッスーラの受けている『私的啓示』なるものは天からのものではない」と結論づけている記事から。(私はこれに同意する。)
ギリシャ正教会信徒であるヴァッスーラ・ライデン夫人はある出来事が身に起る以前には葬儀や挙式以外に教会に足を運ぶ事がなかったと言われる。

どちらの記事も「最初の霊的通信を受けた時に彼女は『宗教的無関心』の人であった」と言っている。宗教的無関心の人のところに、あ〜る日とつぜん 「天使」が、「イエス」が、語りかけて来るわけである。

そして、その「お告げ」を受けてから彼女は急に信心深くなるわけだが、やがてその彼女が主張し始めた事はどういう事か。彼女が「天からの声」「イエスの声」として人々に紹介しているのは、どういう内容のものか。
------- キリスト教界におけるある種の COEXIST のことなのである!
(詳しくは上に挙げた彼女に否定的な方の記事を参照してください。その記事が言っていることは正しいから。)


例2) モーリス・バーバネル (Maurice Barbanell)


シルバーバーチからの通信を受けた人である。彼は事の発端を自身で説明した文章の中で次のように語っている。
同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わって行った。

このように無神論的な人のところに、あ〜る日とつぜん 「高級」を自称する霊が通信して来るわけである。




さて、一番の問題は、上で言ったように、
「神様は『心の寛い』お方だから、何らかの意図のもとに、そのようなことをなさることもあるかも知れない」
と思う人も多いだろうということだ。

そのような人達はおそらくその「何らかの意図」、神様の何らかの意図について、こう考える。
「宗教的に不熱心な人の方が余計な擦り込みがないから、つまり地上の教会によって教義的なものが擦り込まれている度合が少ないから、神様は『隠されて来た本当の真実』を伝えようとする時、むしろそのような『心が白紙の状態に近い人』を選ぶだろう。少なくともそのような可能性も大いにあると思わねばならない。」
これに対し、私は「いや、無いね」と答える。

理由?
本当の神様からの通信は、それ自体「途方もない」と言うべき「恵み」だから。何らかの形でその恵みに「値する」人が、それを受ける。(それを判断するのは、勿論、神様側である。)
神様は、「憐れみ」によって、ある者に何かをお教えになることもある。けれど、神様に対する意識がまったくゼロ、あるいは殆どゼロの人のところには、通常、憐れみによってもお出ましにならない。神様に向かう何らかの真面目な心なり運動なりがまず先行して人間の側にある時にのみ、神様は接触される。

いろんな示現を観察しても、そういう構図しか出て来ないのである。