2010年12月10日

悪魔のディベート

マシュー君


シルバーバーチとマシュー君、
両者の主張の類似点を短く拾いながら、
「悪魔のディベート」をほんの少し観察してみます。

その前に、少し予想されるクレームを牽制しておきます。
私は今「類似点を短く拾いながら」と言いましたが、それに対して「前後関係を読まなければ」というクレームが予想されます。

しかし、私は最近しばしば思います。
人はよく「前後関係を読まなければ」などといっぱしな事を言う、と。

私はあえてゴーマンかまして言いたい。警鐘を鳴らしたい。
あなたは「前後関係」を読めば「分かる」んですか?
むしろ、あなたは「迷う」んじゃないですか? 「前後関係」を読むと。
あるいは、いっぱい読むと。読めば読むほど。

「読めば読むほど理解がより進む」なんてのは、この場合(対象は霊的な事柄です)、幻想なんじゃないですか?

「前後関係」における言葉の巧みな配置によって、あなたは騙されてしまうんじゃないですか?
彼らの言うのは「半真理」です。「半真理」の巧妙さを打ち砕けますか?

半真理。これは私が勝手に意味をこめて使ってる言葉だけれど、要するに、
真理の「全体」のうち、一般に通りのいい部分だけを言い、強調することによって、残りの部分 ------- 一般にはあまり認知されない、しかし本当は人間の霊魂にとっても最も重要な部分 ------ を否定したり隠したりする、
というようなことです。そのような論法、ディベート術を称して「半真理を言う、弄する」と言ってみたりします。

悪魔/悪霊は ------- そのようなものが在るならば(在るのですが)------- それを使うでしょう。彼らは、あなたがそれを読んだハシから「ああ、これは嘘だな」と分かる嘘はつかないことでしょう。悪霊が悪霊らしい「黒い服」を着てあなたの前に登場することはないでしょう。
(私が悪霊の頭目なら、そんなことをする奴は即刻クビです)

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あなたは善人ですか?

もしそうなら、「善人には悪人のことはよう分からん(かも)」ぐらいのことは思っていなければなりません。悪人のことをよく理解するのは悪人です。詐欺犯の心理と手口とその犯罪の規模を知っているのは、同じような詐欺犯だけです。善人にはちょっと想像がつきません。

しかも、この場合の相手は「悪人」ではなく「悪霊」です。私達はその顔の表情を見ることさえできません。

油断は禁物。「疑う」ことをしなければなりません。

ゴーマン。偉そう。すいません。

では、「心理戦のマスター」(悪魔を誉めるわけではありませんが)たる悪魔の言論を聞いてみましょう。私なりの解釈も付けてみました。
我々はイエスを直接知っているのだ
シルバーバーチ 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。

わたしは何度となくお会いしております。
僕も彼の下で働いたことがあります。マシュー君
(本音)どうせ何を言っても人間達には確かめられないのさ。ま、言いたい放題ってとこだ。それに、この宣言 -------「私達はイエスを直接存じております」------- は、現在の宗教に飽き足らず(本当はただ発見に失敗しているだけだが)、それでいてまだ真理を諦めていない真面目な人間ほど気になるものだ。無視できない。喰いつくのさ。「私達は彼を知っています! あなた方は知らないのです!」 アッハッハッハ、いい餌だよ。

イエスは基本的には我々の誰とも変わるところのない人間である
シルバーバーチイエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです。
イエスはほかの人間の赤ちゃんとまったく同じように、妊娠して生まれました。(…)イエスは妊娠中の妻マリア・マグダレナと一緒に(…)マシュー君
(本音)これが「科学的」ってもんだろ。これが「平等」ってもんだろ。ふははは。

イエスは「偉大な霊能者」ではあった
シルバーバーチイエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。

イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

その時のイエスの愛情あふれるお言葉——それまでに私たちが成し遂げた成果についての評価を披露され、新たなる力、新たなる希望、新たなるビジョンをもって新たなる目標に向かって突き進むように、と励ましてくださる時のあの温かい愛を、皆さんにも感じさせてあげたいのですが、それが出来ないのが残念です。教会が説く神格化されたイエス・キリストではありません。多くの有志を通して地球浄化の大事業に勤しんでおられる、一人の偉大なる霊です。
彼は(…)宇宙の法則を使ってからだを癒したり、姿を変えたり増やしたり、非物質化や再物質化するといったこと・・あらゆる魂に本来そなわっているいわゆる "奇跡" と言われることを演じる能力・・を彼ら(東方のマスター達)から学びました。マシュー君
(本音)イエスは偉大だ! 立派だった! しかし、ただの人間だった、ふははは。
どうだい、このお手並み。俺達はイエスを落とし、持ち上げ、落とし、また持ち上げる。そのような微妙な線を狙い、イエスを慕う人間どもの心理を攪乱する。やつら、目を白黒してやがる。
目的? 俺達としては、奴を神の座から引きずり下ろすことさえできたら、あとは何でもいいのさ。奴が誉められようと、讃えられようと、ノーベル賞を300個もらおうとね。奴が一人の「人間」として居てくれる限りは、あるいは「諸霊の中の特別に偉大な霊」として居てくれる限りは、あとは何だっていいのさ。
また、「超能力」。これは神から存在感を奪ってやるのに絶好な概念だ。「神由来の有り難い奇跡」などという観念など根こぎにしてくれる。全てを「自然」の一語で説明してやる。これこそ「天主(聖三位)」の失墜! そして「大霊(ルシファー)」の勝利だ!

教会など人間が作ったものに過ぎない
シルバーバーチ自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。
神が教会を何か建物であるとしたことはない。荘厳な大聖堂などは人間が考えついたもので、神の考えではない。教会とはすべて魂の内にあるものだ。それは人が敬い、感謝するこころだ。それは神の愛と光の中に精神が高まることだ。このように考えれば、教会は宇宙に届くことができる唯一の祈りと言える。マシュー君
(本音)俺達はこのように「半真理」を使う。実のことを言えば、神は「あらゆる所に存在」していると同時に、神自身が定め、神自身が地上に据えた教会という建造物の中に、一層存在しているというのが真実だ。何故なら、教会というのは、神が人間に対する愛情のため、人間に大いなる霊益を与えんとして地上に置いた特別の装置であり恵みの通路だからだ。しかし、俺達は半分しか言わない。教会自身「神は教会という建造物の中にだけ存在する」などとは教えていない。が、俺達はそれには触れない。教会という神の特別の配慮など、人間の視界からすっかり外してやる。
人間の内面の理想、いわゆる「生き方」「在り方」の問題についても、俺達は「半真理」を使う。既に言ったことでも分かるように、教会とは、人間が自分の内に正にそのような善き心を建設するための、それに欠かせない、神からの霊的助力や恩寵を与えるものだ。だから、本当は教会と人間の内面的努力の二者は矛盾しない。いや、本当は矛盾しないどころの騒ぎではない。人間は神の助力なしには、自分の努力だけでは、決してどこにも行けないほどだ。しかし、俺達はそのような「難しい真理」は決して口にしない。真理の「全体」を決して説明しない。常に一般に通りのいい、人間の地上的頭脳にフィットする、真理の半分だけを語る。一方の事のみを言い、他方の事はきれいさっぱり忘れさせてやるのだ。あるいは、気づかせない。車の両輪から片方の車輪を奪うようなものだ。誰も天国には行かせない。

聖書は嘘でいっぱいだ
シルバーバーチ(聖書には)ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……
キリスト教についての真理は、それが(…)作り事を基にしていること、そして彼の教えが(…)故意にねじ曲げられたことです。マシュー君
(本音)聖書の信頼性を徹底的に奪ってやる。しかし俺達はそれほど力こぶを作って力説しなくてもいい。「組織や権力は腐敗する」という観念ほど、地上の人間達にとって親しい、しっくり来るものはないからだ。人間は大した検討もなく、ほとんど自動的に、この定式を教会にも適用するだろう! 俺達はそのような「純真」な人間が大好きだ、あははは。

イエスは時の権力者達によって神に祭り上げられたに過ぎない
イエスを信仰の的とするのでなく、生き方の模範とすべきである
シルバーバーチ地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、「イエス」と「神」とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。
(本音)ここでも俺達は「半真理」を使う。『キリストに倣いて』という有名な書物があることでも分かるように、教会は実際「イエスに倣う」ことを教えている。そして本来、イエスを「神」として仰ぐことと、人間の模範として仰ぐこととは、矛盾しない。両立することである。また、教会自身、決して「神としてのイエス」のみを教えているのではなく、弱さも人間的感情も持ったイエスのことも教えている。けれども、俺達はここでも半分しか言わない。俺達がするのはただ一つ、「祭り上げた! 祭り上げた!」と騒ぐことだ。こんな単純な手法が意外と功を奏するのだから驚きだ。
そして俺達はそのように教会を責めた後、ぬかりなくすかさず「イエスに忠義を尽くすべきだ。イエスを喜ばせるべきだ。悲しませるべきではない」とたたみかける。我ながらうまいと思う。純真な奴らはこれに喰いつく。ある意味、イエスに思い入れがある人間ほど、俺達のこの打ち出し方に惹かれるものだ。無視できないのだ。そして俺達は、この卓越したディベート術でもって、そのような人間の心をも徐々にイエスから外してやるのだ。このようにして、信仰の対象としてのイエスは滅ぶ! 諸霊の中の一つの高級霊としての、また人間としての、一つの「サンプル」としてのイエスのみが残るのだ!

権力者というものは汚い! 汚い! 教会の権力者も例外ではない!
シルバーバーチ地上は今やまったくの暗闇におおわれています。迷信と間違いと無知のモヤが立ちこめております。大霊の意志が届けられる道具はごくわずかしかいません。予言者の声は荒野に呼ばわる声のごとく、だれも聞いてくれる人がいません。洞察力に富む彼らの開かれた未来像はかき消され、聖なる道具(霊媒)は追い出され、聖職者の悪知恵と既得の権力が生ける神の声と取って代わってしまいました。(…)わたしたちは既得の権力というものは国家であろうと教会であろうと、民族であろうと階級であろうと一宗一派であろうと、そのすべてに反抗してまいります。すべての人間に自由を——崇高にして深淵、そして純粋な意味における自由をもたらしてあげたいのです。

わたしたちは、大霊を共通の親とする全人類の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に建てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。(…)
宗教的教義(ドグマ)は、とくに西欧の宗教において、そのような自然との調和を妨げ、大衆を支配し、自分たちの富を得るために何世紀にわたって教会指導者たちによってつくられたことです。(…)イエスを「唯一の神の子」とすることで、だれも到達できない高い地位に押し上げたのです。

キリスト教が生まれると、権力を握る人間たちは、自分たちの目的に適うようにその記録を改ざんし、イエス・キリストを「唯一の神の子」と描き、それが聖書になりました。そして人々と神の間に「権威」の層を置いたのです。
マシュー君
(本音)「汚い権力者」の話も効果テキメンだ。純真な者達に大受けだ。
俺達は「権威」と「権力」に関する注意深い考察など人間に許さない。人間が天主によって社会的存在として作られた限り、社会にも家庭にも学校にも「権威」が必要なのは明白である。だが、俺達は常に「権力」という言葉だけを使う。「権力者は悪い! 腹黒い! 圧政者だ! 搾取者だ! 卑劣だ!」と連呼する。実際、人間の世界には(教会にも)悪しき者があるのは事実だから、人間達はこれを簡単には否定できない。事の真実を知るためには本当はかなり仔細な検証が必要な場合でも、人間達のためにはただ連呼だけで十分だ。俺達は人間達に冷静に考える暇を与えない。
教会を「権威者」ではなくただ「権力者」と位置付けることによって、そしてすかさずイエスを誉め上げることによって、あるいは「イエスはそんな教会のことを悲しんでいるんだよ」とまことしやかに言うことによって(純真な奴らったら、これでしゅんとするんだぜ、ハーハッハ!)、俺達はますます人の目に、教会とイエスを分断できるのさ。

教会の内容物、教会が持っているものはことごとく、何の意味もない
シルバーバーチ教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。
(本音)ミサの祭壇の上でどれだけのことが起こっているかはカトリック信者だってよく分かっていないくらいだから、俺達は好きなだけ「儀式はただの形式だ! 形骸だ!」と断定しまくることができる。
法衣? そうだ、我々は、もしできるならば、どんな悪魔的な快楽でもってすべてのストラを引き剥がし、地獄へ引きずり下ろし、それを燃やすことだろう!

告解の秘跡など欺瞞である
シルバーバーチもしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層に行けるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになります。
(本音)これに反論できるのはよく教育されたカトリック教徒ぐらいのものだ。多くの者は、「死の床での信仰の告白一つ」、この「一つ」「一回」という外形的な数え方に抵抗できない。本当は(カトリックにおいては)厳しい痛悔を求められることを知らないのだ。俺もこの事を言うつもりはない。永遠に伏せておくつもりだ。
ところで、昔、仲間の一人が忌々しいエクソシストによって本音を言わされてしまったことがあった。奴は言ったものだ、「そのようにして告解者は、偉大な、また致命的な(悪魔達にとって)罪の許しを受けるのだ。『EGO TE ABSOLVO(私はあなたを許す)』... ああ、我々はいかにそれを憎んでいることか! 今日においても我々はそれを憎んでいる!」とね。とんだドジ野郎さ。

イエスはミサなど望んでいない
シルバーバーチ(イエスを記念した最後の晩餐の)儀式を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。
(本音)ミサと聖体拝領。我々はそれを憎む! 地上から一掃してくれる!




管理人

読者の中には、これほど読んでもまだ、次のように思う人がいることでしょう。
「確かにシルバーバーチの言うこととエクソシズムで悪魔が自白させられたことは似ているけれど、それは "たまたま" なのでは? シルバーバーチはシルバーバーチとして、やはり一個の善霊なのでは? 言うことは似ていても、両者は動機の点で違っているのでは?」
では、私は前に言ったことをもう一度繰り返しましょう。
しかし、今「内容」のことを言ったので、もう一度前に戻って確認させてもらうが、「シルバーバーチ」における問題は、その言っている「内容」自体がどうのというよりむしろ、彼が「イエスをよく知っている」と「嘘」を言っているというところにあるのである。そして、彼が嘘を言っているのは「明白」である。(後日、「ベイサイド」以外の示現も紹介する。)
そして、嘘をついた上であの内容なのだから、その正体は推して知るべし、否、明々白々だということなのである。「嘘」と「内容」の二つを絡ませて見なければならない。

カトリックの示現を見慣れている者から言わせると、シルバーバーチは「イエスをよく知っている」と言ったからこそ、自ら「墓穴」を掘ったのである。
そしてまた、昔の私のように「霊界にはなにもキリスト教の神だけがあるわけじゃあるまいし...」と常識(これもまた一つの固定観念たり得る)のように思っている人に対しては、こう言いましょう。
あなたは一般的に言われる様々な「御神霊」というものを信じておられる。いいでしょう、それは今は脇に置いておきましょう。

けれども、シルバーバーチはとにかく西欧世界に降り立った霊なのです。キリスト教の「ミサ」がじゃんじゃん行なわれているキリスト教世界のど真ん中に降り立った霊なのです。そしてその上でそれ(ミサ)を否定しました。殆どどんなためらいもなくバッサリと否定し去っているのです。

彼は、変な言い方ですが「キリスト教のことをよく知らない日本の御神霊」などではないんですよ。クリスチャンの人間と堂々と聖書に関する議論をしているほどです。聖書にとても詳しいです。(聖母が「サタンというものは、聖書を説明することさえできるのです」と言ったことを思い出してください。参照) そしてまた「自分はイエスをよく知っている。何度もお会いしている」と言っています。

もしこれが日本の御神霊だったら(話の上での仮定です。私はそれを信じていません)ひょっとしたらキリスト教のことをよく知らないで「儀式は大したものではない」という一般論を吐いた可能性もあったかも知れません。けれどもシルバーバーチは違うんです。まったく違います。彼はキリスト教のことをよくよく知っています。だから、彼がまったくの嘘つきであることは明々白々だと言うのです。

誤解なきよう。私は「ミサ」を否定されたからというのでいわゆる「腹が立っている」わけではないのです。私はカトリックの示現の中に「わが教会」「聖体」「ミサ」のことなどを常に語る「イエズス」や「聖母」を見ていて、それが真実であると確信しているので、以上のような「判断」になるのです。感情ではなく、そのような「判断」で申し上げているのです。