2010年12月30日

偶像崇拝 7

ある個人、ある団体がサタニックであるかどうかを見極めるために「数字」などというものがバカ熱心に足したり引いたり(引かないか)「多少調整され」たりwしながらチェックされる昨今である。だから私も偶像崇拝についての連続記事を「6番」で終らせるわけにはいかない。無理に7番目を書くことにする。(まあ、それは嘘だが。)

偶像崇拝 3」で見たように、
宗教者は「宗教的」であるが故に、却ってこの問題に関して混乱している。
故に【提案その1】
この問題を調べるのに、一度『宗教者』であることをやめなさい

いや、冗談で言っているのではない。
人間は物事をいろいろに考えられなくちゃ駄目だと思う。
いわゆる「凝り固まって」ちゃ駄目だ。

宗教者が「宗教的」な手法・発想を一度スッカリ捨て、
ただ一種「科学的」な手法・発想のみでモノを見る時、見直す時、
この「偶像崇拝」という問題はどういうことになるだろう???

こういうことになるのではないか。
  1. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことになるなら、それは「害」である。
  2. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことにならないなら、それは特に「害」ではない。
  3. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことにならならず、却って「助ける」ことになるなら、それは「益」である。
これは完全に正しい。絶対的に正しい。
仮定法も含んだ話の流れとして、これは当り前であるから。
しかし、当り前に考えることが大事。

では、「妨げるケース」にはどのようなものが考えられるだろう。
  1. 虚しい場合
    「鰯の頭」を拝む場合。「鰯の頭」を拝むことは虚しい。
    「鰯の頭」は天主ではないし、それを表徴してさえいない。
    それは「無」である。
  2. 邪気を受ける場合
    邪霊が「鰯の頭」を利用した場合。それはもう「鰯の頭」ではない。
    それはもう「無」ではない。邪気という「有」である。
この二つのパターンしかないと思う。「害」の生じるケースとして。
他にあるかい?

そして、天主様だって、「裏」もなく禁じの命令をお出しになることはない。
「裏」がないなら紙一枚のペラペラの標語だ。
しかし人間はみんなペラペラの標語を振り回している。


この問題に関してはこれで一応の終りとする。