2010年12月30日

偶像崇拝 6



こんな意見もある。

彫像などは、例えてみれば、乳児に与える「おしゃぶり」くらいの意味しか持たない。彫像を全否定することは、乳児から「おしゃぶり」を取り上げるようなものであるから、あるいは残酷なことかも知れない。私達は、そのような幼児的な人々には、寛容にしてもよいかも知れない。しかしとにかく、大の大人は「おしゃぶり」など必要としない。「真の信仰は彫像など必要としない」という論理は全く正しい。

これに対する反論の第一は、前回紹介したベイサイドの聖母もおっしゃっておられるように、
「私達は子供達にも配慮しなければならない」
ということである。
何の具体的なイメージもなしに、子供達が「イエス様」を慕うことは難しい。

私達は自惚れるわけにはいかない。私達はすべてかつて「子供」だったのである。親から、社会から、いろいろなもの(良いものばかりとは限らない)を与えられながら、心が形成されて来たのである。
「おしゃぶり」と言いたければ言えばいい。しかし、自分がさもさも立派な「大人」になった気になって、顔に髭をくっつけ、偉そうに「真の」だの「論理」だのと言っている人は、子供だった自分が不幸にして「適切なおしゃぶり」を与えられなかった場合、現在の自分がどうなっていたかを想像することさえできないのである。いや、言い直そう、想像する「必要」を「忘れて」いるのであると。

生きた人間の心を理屈で割り切ってはならない。生きた人間の心をよく理解するのは、理屈っぽくなり、知らず傲慢になってしまった「頭」ではなく、これまた「生きた人間の心」である。「それはおしゃぶりに過ぎない」などと偉そうな事を言っている人に限って、大した弁えもなく、子供達に多くの「不適切なおしゃぶり」を与えながら、ぼんやりしているものである。

そしてまた、私達自身が今も「子供」であることである。私達は実際、今まで社会から多くの「不適切なおしゃぶり」を与えられて来た(もちろん恩恵も受けてはいるが)。そして私達は、自分が今まで受けて来たもの、また今受けているものについて、「適切な影響」と「不適切な影響」をよく振り分けることもできないでいるザマなのである。その意味で、やはり今も頼りない「子供」なのである。自惚れるな。成人である私達もまた、実のところ「目の未熟な子供」なのだ。私達の「内容」は、その大部分が、かなりの程度「環境の産物」なのだ。私達の「状態」は、その大部分が、かなりの程度「川に浮かぶ木の葉」なのだ。どれだけのものを「自分で選んで来た」と言えるのか。そんなことを胸を張って言える人は、ただ自分を ------- 自分の成り立ちを ------- 知らないだけである。

反論の第二は、
「美しい彫像が私達の心に与える影響は、美しい歌が私達の心に与える影響と同じである」
ということである。

それは人間の「情操」に栄養を与える。「情操」と言う限り、それはいまだ「精神的」なものである。しかし、人間においては「精神的」と「霊的」の間に明瞭な境がない。「精神」に善い影響を受ければ、自然、「霊」も引き上げられるのである。少なくともその契機になる。善い刺激になるのである。あんまり「論理、論理」とばかり言っていると、「ブルジョア的な装飾」を一切剥いだ、がらんどうの、北風ピープーの共産主義の街みたいになること必定である。教会の中に、正しい信仰対象あるいは崇敬対象の「形見」としての彫像 ------- それは出来るだけ美しくなければならない ------- があることは、間違いなく「良い事」である。また「善い事」である。

そして、その彫像との「関係の持ち方」については、既に述べた通りである。


私がごく幼かった頃(幼稚園〜小学2年)、おそらくクリスマスに、親の知り合いの或る御婦人が我が家を訪れ、イエス様の御生涯を描いた子供向けの本を私にプレゼントしてくれた。私は嬉しかったと思う。
私は字を読めたのだろうか。私が理解したものが文字から来たものか挿絵から来たものか、今となってはよく分からない。けれど、「イエス様」という人が「みんなからいじめられて、体がぼろぼろになって、天にあがっていった」ことは理解できた。親はその本を早くに捨てた筈だが、私の頭には今もその挿絵が残っている。私はその本をくれた御婦人に今も感謝している。プロテスタントの人だったようだ。

繰り返す。
私の心にはその「挿絵」が残っていたのである。