2010年12月31日

岡田茂吉氏に関する疑問 1

明主様信仰者へ、そして被害者へ

世界救世教の教祖 (1882 - 1955)

このシリーズは岡田茂吉氏の宗教に少しでも触れたことのある人達のためのものです。ですから、それ以外の人は、お読みになるなw

と言っても読む人は読むのだろうから、少し弁解。
「岡田茂吉氏に関する疑問」などという言葉は、普通のカトリック教徒の口から出るものではない。カトリック信仰から見れば、岡田氏の宗教などただただ「異教」なのだから。「疑問」も糞もない。(汚い)

しかし、私はあえて素朴な「探究者」として書く。そうすることにはある種のメリットがあると思うからである。カトリック仲間には少し許してもらいたい。

「ある種のメリット」とは、彼の宗教に苦しんだ人、また今も苦しんでいる人のために、参考程度のものを供することである。そのためには、私は全くカトリック信者として書くわけにはいかない。全くカトリック信者として書くなら、
岡田茂吉氏はイエス様が唯一の神であることを否定している。
よって、彼は偽預言者である。
この二行でおしまいである。だが、これだけでは、上記の人達の心に少しも響かない。どうしても、彼らと同じ場所にある程度(ある程度、であるが)身を置きつつ、書かないわけにはいかない。


本論に入る前に、白光真宏会の五井昌久氏とこの岡田茂吉氏に起こった霊現象の興味深い類似のことを挙げておく。それらはあまりに似ているので、私は過去、五井氏を疑うに至り、しかし岡田氏のことはまだ信じていた時点で、「五井氏のこれは岡田氏のものの猿真似ではないか。悪霊が岡田氏のそれを猿真似して五井氏を騙したのではないか」と思っていたものである。

その類似とは、両者とも
1. 自分は「神人合一」に至った、
2. 自分は神様から「如意宝珠」を頂いた、
3. 自分は「観音様」と深い縁がある、
と言っていることである。奇妙なことに、この三点がピタリと一致している。

しかし、その奇妙さはともかく、果してこれらを豪語する人達は本当にそのような者達なのだろうか。私は既に五井氏が白色同胞団の霊を識別できなかったことを指摘した(参照1参照2)。五井氏についてはそれで十分である。
では、岡田氏はどうか。私は今、カトリックの神から光を受けつつ岡田氏のことを改めて見る時、実は五井氏のみならず岡田氏もまた、その「霊覚」なるものが極めて怪しい人物であった可能性を感じないではいられないのである。


私は、岡田氏の言説の真偽を「直接知る」ことはできない。私は霊界を覗くことはできないのだから。
彼の言っている事は、たとえばこうである。(正確な引用ではないが)
イエスは「素盞嗚尊(すさのおのみこと)の霊統の神」である。「霊統」とは霊的な家系のようなものである。そして、その素盞嗚尊は古代の或る時、邪神に負け治安を見出すという罪を犯した。そのため伊弉諾尊(いざなぎのみこと)によって追放され外国に渡った。それがユダヤの起こりとなった。彼はそこに住んで十二人の子供を生んだ。その中から出た子孫の一人がイエスである。イエスは自分の先祖(素盞嗚尊)が日本で犯した罪の贖いをした。彼の贖罪の根底にあったのはそれである。
しかし、このような事の真偽を誰が見分け得ようか、「直接知り」得ようか。

彼のこのような言説を一笑に付すのは容易い。けれども、私はそうしない。それはこの場の趣旨ではない。私はできるだけ素朴且つ公平な目をもって見たい。
けれども、そうはいえ、彼の展開する霊界に関する説はあまりにも見極め難く、否、「難く」ではなくて文字通り「不可能」であって、どうにもならない。
だから私はここから目を外す。別の視座から別の手法をもって見ようとする。

その手法とは、このサイトで既にやっているように、カトリックの示現との「擦り合わせ」を行なうということである。

しかし、「擦り合わせ」が可能であるためには、主題が同じでなければならない。岡田氏が「Aは黒である」と言い、カトリックの示現が「Aは白である」と言っているケースを選ばなければならない。「イエスは素盞嗚尊の子孫である」などという説に関しては、カトリックの示現は「イエスは素盞嗚尊の子孫ではない」とは言っていないw。それはキリスト教にとってはあまりにも突拍子もない説であって、あまりにも離れ過ぎており、いわば袖さえ触れ合わないから、「擦り合わせ」の対象にもならない。

では、岡田氏が「Aは黒である」と言い、カトリックの示現が「Aは白である」と言っているケースはあるのか。

あるのである。一つ決定的なものがある。
それは聖母マリアの「処女懐妊」についてである。

ページを改める。次へ