2010年11月25日

シルバーバーチは悪霊である 3

シルバーバーチは「何の意味もない」と言う

教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。


霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた:

そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません


「イエスを記念した〈最後の晩餐〉の儀式」とは、カトリックで言えば「ミサ」である。故に、これによってシルバーバーチは「イエス自身も、カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって、少しも嬉しくは思われません」と言ったことになる。さて、それは本当であろうか。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。"聖なる書" と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません讃美歌の本から "聖なる歌" をぜんぶ削除してもかまいません儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。(…)

儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません


自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。


彼は「教会は必要ない」と言っている。少なくとも「必ずしも必要ではない」と言っている。彼のよく知っている「イエス」も当然同意見なのであろう。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣——こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう?


このように、シルバーバーチは、「宗教」「人間」「人間の霊魂」にとっては、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そしておそらく「教会」そのものさえも、何の意味もないと言っている。

先行句を少し変えてみよう。
「宗教の本質的目的」「人間の真の霊性の開発・進歩」のためには、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、何の意味もない

また少し変えてみよう。
「人間がまだ幼児期にある時」には、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、幾らか意味があるかも知れない

シルバーバーチの言っている事はそういう事である。
そして、シルバーバーチがよく知っているところの「イエス」も、彼のこの考えに当然同意しているのであろう。

では、これら全てのニュアンスを念頭に、これらシルバーバーチの思念が次の「霊」達の思念と同じかどうかを見てみよう。(やはり「ベイサイドの預言」からのものである。)

多くの者が、わが体(訳注:御聖体のこと)を、不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与えている。多くの者が、わが体を、神を侮辱する方法でもって受けている。そしてまた、多くの者が、ミサの聖なる犠牲において、不浄、不信心、心と行為における不純を促進している。
1979年5月26日、イエズス 

私の御子の恩寵、彼の肉体的な体(訳注:御聖体のこと)、あなた方のミサ聖祭における恵みを、しばしば受けなさい。しかし、それは奉献された手によってのみ、私の御子によって祝福された手によってのみ、御子の仕事をするため、御子を代理するために叙階された人の手によってのみ、あなた方に与えられなければなりません。
1971年2月11日、聖母 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには決して言われないことだろう。儀式が「単なる儀式」であるならば、どうして「不敬」とか「そこから恵みを受けよ」とかいうことになり得ようか。

わがミサに対する信仰を失ってはならない。それは有効である。人間はそれを歪めるかも知れない。しかし、それは有効であると、私が言う! ローマ・カトリック教会の合法的に叙階された司祭がミサを挙行する時それは有効であると、私が言う!
1976年12月7日、イエズス 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには心配されないであろう。

カトリックを知らない人のために、上の中の「有効」という言葉を説明しなければならない。
カトリックのミサにおいては祭壇の上で「パン」が「キリストの体」に変えられる。これを「聖変化」という。外観はパンのままだが、"実体" が「キリストの体」に変わるとされる。どのみち人間には分からない、「信仰」をもって向かわねばならない神秘的なことである。(宗教が「神秘的」なことを含まず、ただ「精神的」なばかりであるなら、修身と同じであろう。)
ところが、第二バチカン公会議以降、ミサの形態や式文が新しくなり、また神学校での司祭養成の中身も怪しくなったせいもあって、一部の者達から「これでは聖変化が起こらないのではないか(無効ではないか)」という疑義が提出された。これをもって教会から出る者達も現われた。
上の霊達の言葉はそのような状況に対応している。つまり、そのような状況を憂い、「いや、それは有効だから、出てはいけない」と言ったものである。


さて、ここで一つ、私らしい嫌な言い方をする。

聖書も仏典もほとんど開いたことがなく、祈りも瞑想もほとんどしたことがなく、神仏の "実在" ということをほとんどまともに考えたことがないような人が、堂々と「宗教の "本質" とは」と論ずることが出来たりする、不思議な、勘違いな人の世である。そのような「宗教を知らずに宗教を論ずる」ということが出来ると信じている人達は、ある者(人であれ霊であれ)が「宗教の本質は愛です」と言えば「そうそう」と思い、「宗教の目的はただ愛であるから、儀式など非本質的なものです」と言えば「そうそう」と思う。しかしそれは、言っちゃ悪いけれども「単純」というものである。あなたにはなお考えるべき多くの事がある。

たとえば、前回「あなた方は文章によって欺かれないように」という「聖母」の言葉があったけれども、試みに「儀式」という言葉を「秘跡」という言葉に置き換えてもらいたい。シルバーバーチが「宗教にとって儀式など何の意味もありません」と言ったのではなく、「宗教にとって秘跡など何の意味もありません」と言ったのだと。すると、あなたは「秘跡とは?」と考えなければならなくなる。そんなに直ぐには「そうそう」と頷けなくなる事態になる。

つまり、シルバーバーチは一般に通りのよい「儀式」とか「セレモニー」とかいう言葉を単純に置くことによって、それが「神秘的」なものである可能性を捨象しているのである。「儀式はただの儀式、ただ形だけのもの」ということを既成事実化している。

少なくとも私達はこのような「論法」に気をつけなければならない。


さて、そして、上に引用したベイサイドにおける「イエズス」のことである。
彼は、実際、シルバーバーチとは〈正反対〉に、儀式を「単なる儀式」とは見ず、「単なる形式・形骸」とは見ずに、何か非常に「神秘的」なもの、神秘的な形で人間の霊魂に多大な恵みを与えるものと考えているようである。

それ故に、
私達がここで最も考えなければならないこと、見極めなければならないことは、

この「イエズス」と名乗る霊と、シルバーバーチが「よく知っている」と主張している「イエス」は、はたして同一人物、否、同一霊だろうか?

ということである。

シルバーバーチの言っていること自体はそれほど悪いことには思われないと、多くの人は思うかも知れない。けれども、もし、シルバーバーチが「よく知っている」と主張しているところの「イエス」が、本当のイエス、本当のイエズス・キリストではないとしたら、それは・・・「もの凄いこと」になるのである。

「えらいこっちゃ! どえらいこと!」なのである。 Do you understand?

何故なら、もしそうであれば、

自ら「高級」を名乗る霊が、「真理」の名のもとに、また「愛」の名のもとに、「嘘」を言っている

ということになるのだから。(ここは単純に考えなければならない。)

そして、次の質問は、こうである。

霊界において、それほどの「嘘」をつくものは、何か?

よくよく考えてみなければならない。


もちろん、その逆のことも公平に言っておこう。

ベイサイドで「イエズス」を名乗っている霊こそが、本当のイエズスではないのかも、ニセモノなのかも、

と。