2010年9月21日

彼女は彼女自身を知らない

(断定ではなく、「おそらく」と付けるべきだろうけれども。↑ )

Sugar High の項からの続きみたいなものですが...

私はこう思ったのです。
彼女の音楽は何よりも「魂」からのものだ、と。
それ故、余計な装飾みたいなものは一切要らない、と。
いや、「余計な装飾」ではなくて、
そもそも装飾というものが、全て、一切、余計であると。
私が彼女にして欲しかった事は、
ただただ彼女自身の魂の中を覗きこむ事でした。
他の事には目をくれて欲しくなかった。
ただただ彼女自身の魂の奥に「つるべ」を降ろして欲しかった。
そうして観客を意識せずに歌って欲しかった。

だから、「ライブは大好きです。無くてはならないものです」などという彼女の言を聞くたび、危うさを感じていた。

うまく説明できないが、鬼束ちひろという歌手にとっては、「見られている」という意識さえ、負に働く、害になる。そう思った。

彼女のすべきは、決して「表現」ではない。
「表現」ではなく、「コミュニケーション」ではなく、何と言うか・・・言ってみれば・・・ただの、出産?
自分の魂の奥を見つめ、それに心の耳を傾け、何かが湧いてくればそれを産み、そうして「野」に向い「宇宙」に向って歌えば良い。しかし決して「観衆に向って」ではない。

そう、決して「観衆に向って」ではない。

私は、自分自身彼女のライブに何度も足を運ぶという矛盾を犯しつつも、常にそう思っていた。(本当に矛盾だ。)

彼女は「周りに振り回された」のだろうと思う。
そしてまた、彼女自身、彼女の音楽の一番美しいところ、その本質、その生命みたいなものを、よく分からなかったのではないか。
(誰の場合でも、「自分の事は自分が一番よく分かっている」などというのは、神話なのではないか。)


さて、音楽は「虚業」だろうか?
否、断じて、否。音楽は、それを聴く人の心を豊かにもし幸福にもするのだから、実のあるものだ。
けれども、この事は、全ての音楽、全ての作品、音楽にまつわる全ての部分、要素が、虚業でない、という事を意味しない。そりゃ、中には虚しいものだって沢山ある。勿論だ。

彼女自身、自分の音楽を作るという事に関して、どう思っているのだろう?
ちーちゃん、それは「虚業」ですか?

このような事に関し、彼女の Beautiful Fighter を聞いた時点で、私の中に一つの心配が生まれたのです。
「やがては通り過ぎて行くもの 覚悟できてる
それならせめて 華やぐネオンの装飾を」

いいや、違う! ちーちゃん、あなたの音楽はそんなもの(虚業)ではないんだ。と、私は言いたかった。
けれど、残念なことに、その後ちーちゃん自身は、その方向への加速を早めたように見える。


音楽は夢幻? 人生そのものも夢幻? 虚構?
どんな確かな事もなく、どんな「規準」もない?
そうなのか? ちーちゃん。